その後、院長室を出たわたしは研修の準備をすることにした。
研修初日、まだ勤務時間が始まってすらいないのに……。
なんだか色々なことがありすぎて目が回っちゃいそう。
そう考えながら、更衣室に戻ろうと廊下の角を曲がったとき。
(ドンッ!!)
いきなり目の前が真っ暗になったかと思うと同時に、誰かにぶつかった。
凛「きゃっ! ……す、すいません」
見上げると、白衣の男性が目の前に立っていた。
???「…………」
柔らかい表情を浮かべた、細見で色白な風貌が印象的だ。
ただ、どことなく掴みどころのない雰囲気がある。
不思議な空気をまとっている人だった。
すこし乱れたその呼吸のせいで、なんだか急いでいるようにも見える。
白衣を着ているということは、お医者さんなのかな?
でも、鼻頭をこの人の胸元にぶつけたときに感じた匂いは、今の自分にはとても身近なものだった。
その香りは、今まさに自分自身からも漂っているもの。
それは、新品の衣服の香りだった。
真新しい白衣のその人は、ひょうひょうとした表情を浮かべながらわたしを見つめていた。
???「……ナイスタイミング!」
その人は、指をはじきながら呟いた。
凛「え?」
そのとき、廊下の先から聞き覚えのある声がした。
ナカムラ「龍之介くん! どこザマスか~! はやく出てくるザマス~!」
凛「この声は……ナカムラ婦長?」
???「やべっ!」
ナカムラ婦長の声を聞いた途端、突然焦りだす男の人。
見通しの良い廊下から身を隠すように、近くの部屋に入ろうとする。
ナカムラ「龍之介く~ん! 龍之介く~ん!!」
わたしがその様子を眺めていると、男の人は立ち止まって、腕を掴んできた。
凛「ふぇっ!?」
急の出来事に驚いて声をあげると、男の人は
???「シーッ!」
イタズラっぽくウィンクしながら、口に人差し指をあてた。
そして、ぐっと腕を引っ張り、わたしの身体ごと部屋の中に入った。
抵抗するスキすら与えない、一瞬の出来事だった。
(ブラックアウト)
薄暗い室内。扉一枚隔てた廊下からは、ナカムラ婦長の声が小さく響いてくる。
凛「ちょ、ちょっと! いきなりなんですか!」
???「シーィってば! ちょっと声出さないでくれよ!」
慌ててわたしの口をおさえてくる。
凛「ングッ!?」
???「すこしだけ! すこしだけボクに協力して!」
凛「…………」
いくら白衣を着ているからって、見ず知らずの男の人に暗がりに連れ込まれている状況だ。
しかも、声を出そうにも、口をしっかりと押さえられている体勢。
自分でも、もうすこし危機感を持つべきなんじゃないかと思ったけど……。
???「バレませんよーに……」
男の人は祈るように扉の方を向いて、小声でつぶやいた。
根拠はないけれど、その表情からは危険な意思を感じなかった。
どこか天真爛漫というか、無邪気な笑顔をしているんだ。
わたしが声を上げないことに気付いたのか、男の人はそっと口から手を離した。
ナカムラ「この辺りに来たはずザマス……。龍之介く~ん、どこにいるザマスか~!?」
???「やべっ……! すぐそこまで来てるよ……」
ナカムラ婦長の声が扉のすぐ向こうから聞こえてきた。男の人も、より一層緊迫した表情を見せる。
凛「……ナカムラ婦長から逃げているんですか?」
我慢できなくなって思わず聞いてみた。
???「わっ、バ、バカっ……! 声を出すなよ……!」
ナカムラ「ンンン~~~!?!? この部屋から物音が聞こえたザマス!!」
(ガラガラッ!!)
???「うわ~~~~っ……!!」
わたしの声を聞いたナカムラ婦長が、隠れている部屋の扉を勢いよく開けて入ってきた。
男の人はわたしを引っ張りながら、部屋の隅、入り口から死角になるスペースに飛び込んだ。
2人がギリギリ収まるくらいの、壁と機材のスペース。抱き着いているのと変わらないくらい密着する。
凛「!?!?!?!」
???「(頼む……! すこしだけガマンしてくれ……!)」
男の人は、本当に小さな声で言うが、当のわたしは完全にパニック状態。
凛「~~ッッッ!?!」
???「(……ええい、仕方ない!)」
そして、目の前が真っ暗になる。
同時に、口が何かにふさがれて息を吐き出すことができなくなった。
あれ、これって……さっき手で口をふさがれたときと感触が違う……。
さっきより、もっと暖かくて柔らかい……優しい感触……。
無意識のうちに閉じていた目を、ゆっくりと開いてみた。
……って、これ。
なんでわたし、キスしてんの。
あまりにも不可解なこの状況に、一周まわって逆に冷静になる。
ナカムラ「……ふむ、誰もいないザンスね。気のせいだったザマスか」
ナカムラ「他の場所を探すザンス!」
(ガラガラッ)
わたしたちを発見できなかったナカムラ婦長が、勢いよく部屋から出ていった。
男の人がゆっくりと唇を離した。
???「……ふぅ、なんとかしのい――」
凛「なんてことしてくれてんですかッッッ!!!」
???「ぎゃあ、まだ騒ぐなっ!」
(ぶちゅううう!!)
即座にまた唇を唇でふさがれる。
またキス! キスされた!! 2回もされた!!
口づけしたまま、男の人はドアの外の様子をうかがっている。
ナカムラ婦長が戻ってくる様子は……ない。
男の人は今度こそ唇を離し、すぐにパッと手でわたしの口をおさえた。
???「いいか、手を離すけど騒がないでくれよ。頼むから」
凛「…………」
騒ぐたびにキスされたら、それこそたまったもんじゃない。承諾するしかないようだ。
わたしはコクリ、とうなずいた。
???「…………」
半信半疑なのか、恐る恐るわたしの口をおさえていた手を離していく。
男の人が完全に手を下ろすのを待って、切り出した。
凛「……ひどいことするのね」
???「う……。す、すまないことをしたっていうのは、ボクも思っているよ」
凛「見ず知らずの女を突然暗がりに連れ込んで、無理やりキスするなんて……」
???「い、いや、そんな風に言われるとなんだか鬼畜な男みたいじゃないか」
凛「事実をそのまま言っているだけだけど」
???「は、はい、スイマセン」
さっきまでのひょうひょうとした態度とは裏腹に、一気にしゅんとする。
思っていたより素直な人なのかもしれない。
少なくとも本気で悪いと思っているのは確かなようだ。
凛「……とにかく、あなたの名前を教えて」
???「え、このタイミングで自己紹介?」
凛「だって……」
いくらなりゆきとはいえ、キスをしてしまった相手なんだ。
見ず知らずの人にキスされたとあっては、なんだか貞操を汚された感じがしてイヤだ。
ただの後付けのつじつま合わせだけど、自己紹介をして知り合いになっておかないと、乙女のプライドが許さない。
と、言おうと思ったけど、気恥ずかしくなったので言うのをやめた。
???「いま自己紹介しなくても大丈夫だよ」
凛「どういうこと?」
???「だって、ほら、見てよ。ボクたちの格好をさ」
そう言って、互いの服装を順番に指さす。
???「キミは、ナースさん。そして、ボクは医者」
???「またすぐに巡り会えるよ。自己紹介は、そのときにしよう」
???「こんな、なし崩し的な出会い方じゃなくて、ちゃんとした出会いを、やり直そう」
凛「え……」
???「それに、ほら、もうすぐ9時だ」
壁にかかっていた時計に目をやると、まさしくあと数分で9時になろうかというところだった。
???「9時から業務開始。ボクらはそろそろ戻らないといけない」
???「ボクが恵さんから逃げていたのも、9時までの間だけさ」
恵さん……たしか、ナカムラ婦長の下の名前がそんな感じだった。
???「恵さんが、9時の始業開始までの間、院内を案内してくれるって言って聞かなかったんだよ」
???「始業までの貴重な時間を、あんな人に奪われなくないよね」
そうか、だからこの人、あんなに必死にナカムラ婦長から逃げていたのか。
???「まあでも、恵さんから逃げてたおかげで、良い体験ができた」
???「……キミとも出会えたしね」
凛「……こっちは散々だけど」
???「キスのこと? もちろん、それもボクにとっては最高の体験さ」
はにかみながら、言い放つ男の人。
そんな良い笑顔をされたら、こっちは怒るに怒れなくなっちゃうよ。
???「じゃ、またね」
凛「あ、う、うん」
わたしの返事を聞いていたのかそうでないのか、その人はそう言って部屋から出ていった。
あっという間に辺りは静寂に包まれる。
……風のように、つかみどころのない人だった。
凛「……わたしも行かなくちゃ」
部屋の出入り口に向かって歩く。
うーん……。
たしかに……たしかにキスをされたのはビックリしたけど。
キスをされたということ自体には、そこまで怒りはないかも。
見た目と性格は……そこまで嫌いなタイプじゃないし。
いや、正直に言おう。見た目と性格はわりと好みのタイプだ。だから、キスされたのもそんなにイヤじゃなかった、うん。
だけど、わたしが怒ったのは……。
キスの最中、あの人がナカムラ婦長のことばかり気にして、ぜんぜん集中していなかったからだ。
こういうシチュエーションって珍しいから、強引に唇を奪われるという状況に、不覚にもときめいてしまったんだ。
……なんだか悔しい。
凛「はっ、いけない」
こんなことを考えているヒマなんてなかったんだ。
もう9時。すぐにナースステーションに向かわなきゃ。
ナカムラ「戻ってきたザンスね」
直前に佐奈と合流して、2人でナースステーションに入る。
そこではナカムラ婦長が待ち構えていた。
ナカムラ「業務開始前に、2人に紹介したい人がいるザンス」
佐奈「紹介したい人?」
ナカムラ「そうザンス」
そう言ってナカムラ婦長は隣に立っていた男性を前に進ませた。
凛「……あ」
ナカムラ「龍之介くんザマス」
???「どうも、『初めまして』」
吉良「吉良龍之介です、よろしくな!」
その人は、ひょうひょうとした笑顔を浮かべながら……。
わたしの腕を強引にとって、握手をしてきた。
それが、わたしと吉良くんの出会いだった。